人口減少社会の行き着く先

「人口減少社会」の在野の研究者。「人口減少社会」の行き着く先を探してます。大磯に山林所有。

近況の報告と今後の方向性

 

2週間近くブログ更新が滞ってしまいました。

 

前回記事の詳細 → 心境面の変化 → 今後の方向性という流れで書いていきます。

 

[前回記事の詳細 ~イケダハヤトさんとのやり取り]

前回記事で思わせぶりなこと書きました。

ブログをリニューアルオープンします - たくみ じゅんの楽しく生きよう人口減少社会!

 

これ、実はイケダハヤトさんとのやり取りです。

 

イケダハヤトさんに唐突にも、このブログのコンセプトを伝えたうえで、ダメだししてくださいという無茶なメールをしたところ、速攻で実に丁寧なアドバイスをいただきました。

 

良い人すぎます。イケダハヤトさん。

ありがとうございました。これからもどんどん炎上してください。

僕はどんな状況でもイケダハヤトさんのファンです。

 

で、アドバイスを元に、このブログをより分かりやすくリニューアルしようというのが、前回記事の段階で僕が考えていたことです。

 

 

このはてなブログは、下記二つを話題の軸にしていきます。

  1.  人口減少社会に関する記事のまとめ

  2.   個人台頭の時代に関する記事のまとめ

畑でなんちゃって自給自足はしばらくやらない方向です。。やるっていっててやらずに、すみません。

 

できればこれからも生温かく見守ってもらえるとありがたいです。

 

おしまい。

 

ブログをリニューアルオープンします

今日はとても嬉しいことがありました。


心の中で勝手に師匠と呼ばせてもらってる方にメールをしたら、なんと返信がもらえたという笑


いや、憧れの人から反応してもらえるって嬉しいですよね^_^


その方はブログ界の大御所です。


とても為になるアドバイスをいただけたので、今週末を目処にブログをリニューアルオープンしたいと思います!


ただいま24時、帰りの電車の中でニヤニヤしてます笑



中国や新興国の経済が危ないけどだからどうしたという話と、幸せの方程式


ここ数日、中国の経済危機懸念やら米国の緩和縮小による新興国の下ブレやら、暗めのニュースがきこえてきます。


テレビでは学者や評論家がしたり顔で語ってるんでしょうね。


テレビは年末の笑っちゃいけないくらいしかみないので推測ですが。


そもそも経済は人ありき、そして地球に70億以上の人間が生きている。

それこそがグローバル経済の土台なわけで。



そこから思考を展開すれば危機だの不況だので一喜一憂する必要ないのでは。


景気の波が生活にまるで無関係とは言いませんが、少なくとも中国や新興国は生産年齢人口の切り口でみてもポテンシャルがあるんだから、長い目でみて気にする必要ないんじゃないかと思うんです。


と、軽口叩けるのはあくまで人口動態が安定している国の話。


日本は2013年の貿易収支が過去最大の11兆の赤字となりましたが、これは長期的なトレンドですからね。。


所得収支がまだまだ黒字だから当面大丈夫と思いますが、生産年齢人口はもちろん、人口そのものが減少する日本はまぁ総体として貧しくなっていくんでしょうね。


総体として萎む風船となる日本。でもよくよく見ると、ごく一部の人たちが富み続ける一方で、中流以下が地盤沈下をしていくことに。


僕個人は貧しくても全然オッケイですけどね。


貧しい生活は、日常の喜びを増やしてくれるのを、経験的に知っていますから。


幸せの閾値が低いから、ちょっとしたことで嬉しくなれるんですよね。


よその目を気にすると惨めですけど、そもそもよそは人の家にそこまで興味ないわけで笑


開き直ったら勝ちという話。


そうそう、とある本で幸せの方程式というのを知りました。


幸せ=財産 / 欲望


カオハガンていう島に暮らす人のほんだったかな。


この方程式、すごく気に入ってます。


シンプルだし、きれいですよね。


個人的にいじくるとしたら、


幸せ=(財産/欲望)✖ 笑顔


というところでしょうか。


ではでは今日はこんなところで。


おしまい。


変化はより早く劇的になっている、しかしその風に乗れるのはごく一部

数字みるとちょっと驚きですが、加速する一方でしょう。👇



正しい手順を踏む投資家は長期的にも経済成長率を上回るペースで資産規模を拡大させていきます。


仮に世界経済の成長率がゼロ、もしくはマイナスに転じても、一部の投資家は資産を拡大させていくでしょう。


資本主義経済である限り、貧富の差の拡大は当然の帰結なのです。


いかなる規制を用いても、貧富の差の拡大ペースを鈍化させることしかできません。そして、これからはその規制の効果も、ますます弱くなっていくでしょう。


そして、一定の資産規模に到達した投資家は、その運用スタイルを、保全主体に切り替えることで、労せずに資産は更に健全に成長していくのです。


ここから一般論に入ります。

この、一定の到達点に達したあとは大した苦労もせずにポジティブなサイクルが続くという現象は、投資に関わらず、他の分野でも当てはまります。


例えばウェブに関する分野もそうでしょう。

便利なツールはどんどん一般化し利用しやすくなりますが、そのツールが一般化した時点で、すでに次の技術への対応ができる人たちが一部存在します。


そういう限られた、風に乗れた人たちが新たな地平線を切り開きながら、パイオニアメリットを得ていくのです。


風に乗れない大部分の人たちは、その風を感じて、便利だね、気持ちいいね、と感情面での反応を示すに留まります。


現実的には、その時点で風に乗れてない人が、風に乗っている先頭集団に躍り出ることができるのは、若さと才能と運に恵まれた極めて稀なケースです。

つまり、風に乗れてない人が感情面での反応だけをするのは、極めて現実的な対応ということになります。


しかし、その極めて稀なケースをもって、努力すれば誰でも風に乗れるという論調が世間では一人歩きをするわけです。


こういった世間の論調に同調し、パイオニアや成功者のノウハウを資力労力かけて修得しても、大半の方はせいぜい小さな成功体験くらいしか得られないのが現実なのです。


こうして、形式的には極めてフェアな体裁を整えて、富むものはますます裕福に、フロンティアの開拓者たるパイオニアはその地位をますます堅固にしていくのです。


人間の能力に大差はないけれど、その境遇に天と地ほどの差がでるのはここに理由があります。


おしまい。


あらためて思う、「足るを知る」ということの大切さ

 

突然ですが、「足るを知る」って大事ですよね。

 

僕もそうだし、多くの人もそうだと思いますが、今手元にあるものの価値を感じずに欲しいものばかりに目がいってしまうことがよくあります。

 

今手元にあるものが無価値なのではなく、慣れてしまって価値を感じなくなってしまってるだけなのに。

 

 

上をみればきりがないし、そういう思考パターンだと上にいってもまたその上が欲しくなる。

 

欲しい対象が変わるだけで、やってることは同じ。

 

欲しい→手に入れて満足→飽きる→また欲しい→以下・・・と同じところをくるくる回るだけ。

 

そのくせ、手元からなくなるとその価値に気付くんです。

 

 

断っておきますが、そういう思考は元々誰にでも備わってますし、そもそも欲しいと思う「欲望」こそ、資本主義の成長エンジンです。

 

つまり、今この便利な生活があるのは、この「欲望」とそれを叶える人がいるから成り立つ話。

 

だから「欲望」を否定する気はありません。

 

ただ、自戒の念も込め、少しバランスを意識したらという話です。

 

たまには今手元にあるものの価値を味わおうという。

 

そして、この手元にあるものの価値を味わい、満足することが、「足るを知る」ということ。

 

「足るを知る」ことで、今このときすでに幸せなのだと気づくことができると思うのです。

 

競争に勝つ、困難を乗り越える、成長を続ける、そういったことで得られる満足や幸福感を否定はしないけど、そんなのは幸せの一要素に過ぎないわけで。

 

幸せの一要素に過ぎない勝ち負けが人生の勝ち負けに直結してる人が最近多いんじゃないかな。

 

だからバランス。

 

今立ってる足元をみて、原点に立ち返って、そこで一度「足るを知る」。

 

そこから踏み出せば、今の幸せを感じつつ、大抵の失敗や挫折は笑って乗り越えられるようになると思う。

 

おしまい。

これからの子供にとって大事なことは?

帰りの電車で軽めの更新です。


週末に雑談の中で妻から、東尾リコさんの教育論?的な話をききました。


ざっくりいうと、親として敷いてあげるレールは逆算すべき、という内容。


この大学に入るためにはこれくらいの高校。その高校に入るためには…みたいな。

場当たり的なママさんトークに流されないためにも大事ですよね。


確かにそれは一理あると思いつつ、妻の話をききながらちょっと違うこと考えてしまいました。


今日はそれを書きますね。


そもそも今の教育、特に高校までのカリキュラムって、今の時代にあってるんでしょうか。


僕のイメージですが、教育のカリキュラムって、時代の変化ありきでその変化をタイムリーに追いかけるのではなく、過去からの連続性を重視して、過去を否定しない範囲での改定を加えることで時代をそれとなく追いかけてるだけのような気がします。


そんな教育を受けた子たちが、社会の前線に立つのはいつでしょう。


何年も先ですよね。どんどん時代の流れは早くなってるのに、その何年も先なんです。


教育のカリキュラムと現実の社会には大きな大きなギャップがあることを身体で分かってない子供たちは、社会の荒波に飛び込んだときにきっとびっくりするでしょう。


つまり、今の子供たちが社会の前線にたったとき、「やっぱガッコの勉強しといてよかったーー」ってあんまり思わない気がするんです。


もちろん、教育のすべてに速効性が必要な訳ではありません。


普遍の真理に近い教養ほど、時代がどう動こうと変わりません。そういった教養は人間形成において大事でしょう。


問題は、カリキュラムに従わざるを得ない公的な教養と、時代に合わせて食べてくのに必要な能力とのギャップが日に日に大きくなってるのに、埋めるための手当を意識的にしないことにあるんだと思います。


日々忙しいガッコの先生にそこまでケアしてもらうのは現実的ではありません。各自家庭で手当しましょうねって話です。


なので、僕としては、

•教育のカリキュラムと現実の社会とのギャップがすごくある、という自覚を子供に与えること

•どうやって自分の力でそのギャップを縮めてくのか、子供にその力をつけさせること


ってのも大事だよなーってぼんやり考えたのです。


今後、人口減少社会という下り坂に直面していく今の子供たちに、上り坂のイロハを教えるのも教育の一つとしてはありです。

ですが、僕としては大人も未経験な下り坂の歩き方を自分の力で身につけて欲しいなと。


その方が、大人の敷いたレールに乗るにせよ、オリジナルな人生を歩むにせよ、より人生を楽しめると思うから。


おしまい。

河川敷の私有地・遊休地の所有者っぽい人にアクセスしてみた

 

先日の記事(↓)の続編です。

 

河川敷で見つけた使ってみたい土地 - たくみ じゅんの楽しく生きよう人口減少社会!

 

今日は天気もいいし、周辺の畑に人もいそうだから、いってみよう!

ということで、相模川河口近くの馬入大橋から、目的地に向かってトットコ歩きます。

 

 

 ↓天気最高でしたが、風が強かった。。f:id:takumi_jun:20140119154912j:plain

 

↓馬入橋から歩いて2.5㌔ほどの銀河大橋から

昼間の時間帯でも富士山くっきりです。

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 ↓目的地到着。

馬入橋から歩いて5㌔ほどの神川橋から目的の土地を望む。

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相変わらず分かりづらいので、前回の画像を添付するとこんな感じ。

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ここからは農作業してる方もいたので、周辺の畑を含め、画像・写真は撮ってません。

農作業してる方はお二人ほど(Aさん、Bさんとします)。以下その方たちとの会話です。

 

(畑の入り口近くにいたAさんに向かって)

自分:こんにちは!富士山きれいですね。

Aさん:(一瞬ポカンとした後)そうですねー。

    ここには何しに?

自分:散歩しにきましたー。

Aさん:そうですか。

     ここはあまり歩かない方がいいですよ。

そのまま農作業に入るAさん。皺が深く刻まれたそのお顔は、この時点ではまだ柔和な表情でした。

会話が途切れたので、そのまま目的地へ。

途中でBさんの畑を横切ります。

(Bさんに向かって)

自分:こんにちはー。

Bさん:(笑顔でスルー)

目的の土地にたどり着きます。

目の前でみるとめっちゃ草ボーボーです。

自分:(まじかぁ。。と心の中でつぶやく)

そのまま畑の入り口に戻ります。とにかくあの草ボーボーの土地の所有者が誰か、きかなければなりません。

(Aさんに向かって)

自分:ここらいったい、畑なんですね。

    手入れされてないところもあるようですが、

    どなたが管理されてるんですかね。

Aさん:散歩はどうでしたか。

    ここはあまり歩かない方がいいですよ。

いつの間にか警戒心むき出しの空気。

もう一度きいてみます。

自分:そうですね、そろそろ失礼しますね。

    ところで手入れされてないところが・・・

Aさん:ここは入ってはいけないところなんですよ、

     出て行かれた方がいいですよ。

会話がまるでかみ合いません。。

自分:(笑顔で)そうでしたか。失礼しました!

と、あきらめて退散。。

 

やり取りで分かったのは、あのいったいの畑は誰かの所有ではなく、AさんBさんは恐らく無権限で土地を使用しているということ。

 

河川そのものが時間とともに動くので、元々個人の畑がいつの間にか河川敷になってることもあるときいていたので、あの一体の畑もそうであればいいなと思ったのですが。。

 

よくよく見ると、いくつかの畑の隅っこに古びた軽トラと小さな小屋があり、AさんBさんたちは恐らくそこで寝泊りしてるのでしょう。

 

AさんBさんにしてみれば、見知らぬ来訪者にさぞかしびっくりしたことでしょう。きっと僕は不審者のように見えたはず。

 

ということで、アクセスしたものの、見事失敗です。

 

この前見つけた同じ河川敷の競売物件もそうでしたが、どうやら相模川河川敷の畑は、無権限で運営している方が大半のようです。

 

場所を変えても同じやり取りの繰り返しになる可能性が高そうなので、河川敷の遊休地使用はあきらめます。

 

市の家庭菜園借りてみるか、どうしようか。。

なんちゃって自給自足の実践は早くも壁にぶつかりました。

 

今日はここまでにします。

 

 

おしまい。