人口減少社会の行き着く先

「人口減少社会」の在野の研究者。「人口減少社会」の行き着く先を探してます。大磯に山林所有。

不思議な体験


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世の中には超常現象といった説明のつかない不思議なことがあると言われます。


個人的にはそういうことはあり得ると思っています。


単純な話、全ての物事を今わかってることで説明し尽くせるというのは、さすがにちょっと傲慢な気がするからです。


仮にそういう出来事に遭遇しても、恐怖はあまりなく、むしろ別の世界があることの立証ができる分、知識欲を満たしてくれるのではないかと。


振り返ってみると、僕自身に4つほどそういう経験がありました。なぜそれを書く気になったかというと、4つめの体験を昨日したからです。


順番に書いていきます。


1つめ、子供の頃でした。亡くなった祖父から家に電話があり、僕が受話器をとりました。娘である僕の母の名を二回呼んで切れた謎の電話でしたが、受話器越しにそれが祖父からのものだと直感で理解しました。念のため、親戚に親経由で確認してもらいましたが、当然そのような電話をした人はいませんでした。死後時間が経っていたのに、なぜあのタイミングだったのかは今もわかりません。

ちなみに、祖父は僕の名付け親です。祖父は、僕に名前をつけるとき、僕の今の名前とじゅんという名前の二択で迷っていたとのことだったので、このブログではじゅんと名乗っています。さらに言うと、僕の息子は祖父の漢字を一つもらっています。


2つめ、高校生の頃。父と弟と三人で同じ部屋にいるとき、突然、本当に突然、僕の名前を呼ぶ声がはっきりと聞こえました。弟も聞こえており、弟も僕も父を見ましたが、父は何も言っていないしそんな声も聞こえなかったとポカンとしていました。その声が誰の声なのかは弟も僕も未だに分かりません。


3つめ、社会人生活にも慣れた10年近く前、父が急に亡くなり、離婚し1人になった父の家の片付けを、兄弟でしている最中でした。

兄と弟は食事の調達に出かけ、父の家に1人で残った僕は、感傷的になり誰もいないところで父に語りかけたのです。ありがとうという感謝の気持ち。そこから覚えているのは、背中に寒気が走り、部屋の電気が消えたと思ったらまた光り、その後も何回か点滅を繰り返したこと。父からのメッセージでした。近親者が死ぬと、親しい人にメッセージが届くことがある。話には聞いた事がありましたが、現実にあるんだと確信した瞬間でした。


四つめ、昨日のことです。と、ここまで書いておいて今更気づいたのですが、文字にできるだけの整理ができてなくて、、すみませんが、四つめについてはまたそのうちの記載とさせてください。。これについても、家族の間で起きていることです。



普段は社会のルールの中で複数の役割を果たすことに精一杯の日々で、ひょっとしたら似たようなことは他にもたくさん起きているのかも知れません。目先の優先順位は明確な中で、不思議なことに常に気をとられるわけにもいきませんが、どんなに仕事に追われても、たまに少し立ち止まり、空を見て、星を見て、海を見て、きれいだなと思う位の感性は持ち続けたいものです。






人口減少社会の処方箋

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ここ最近、日本の人口減少について取り扱う書籍やニュースが増えてきたように感じます。これからはもっと増えて、インフラの劣化なども日常的なニュースになるでしょう。


ただ、人口減少社会に対する効果的な処方箋について、まだ目にしたことはありません。


どの自治体も模索中なのは分かります。とはいえ、具体的な処方箋の絵がないと、将来への想像をすればするほど不安ばかりが膨らみます。


その処方箋の答えとして、僕が一つの仮説としてもっているのは、柔軟に調整できる自給自足です。完全な自給自足から部分的な自給自足まで、状況によって調整することができれば、国や自治体に頼ることなく自立が可能になります。


インターネットの情報と、世の中にあふれているものを使えば、昔より自給自足は簡単にできるのではないかと。


大磯の山林をある程度開拓したら、自給自足のテストをしてみようと思います。


このブログの出発点である、なんちゃって自給自足ですね。


みかんなどの果樹園を作り、太陽光パネルで自家発電をし、可能であればツリーハウスも作ってみる。生活用水は雨水を貯め、飲料水は山なので横井戸を掘る。


たまの夜にはツリーハウスに小さな明かりを灯し、夜景と海と星空を楽しみながらコーヒーを飲む。


健康維持の運動としてその過程を楽しみながら、山林についての理解を深めていく。


そんなイメージを抱きつつ、少しずつ進めて行きたいと思います。







年末


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久しぶりの更新です。気づくと今年も残り一週間。歳を重ねるごとに、時間が経つのが早くなる。


今年もいろいろありました。山林開拓は暑くなり始めてからめっきりでしたが、また少しずつ再開していきたいと思います。


来年はどんな年になるのか。日本の人口減少が徐々に速度を上げていく中で、景気はアメリカから後退してくるでしょう。そろそろ大きな引き潮がまた音を立ててやって来るかもしれません。


ただ、何があっても地に足をつけてやるべきことをやっていく。来年はそんな年にしていきたいです。

1ヶ月ぶりの山林開拓

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4月は中旬以降仕事一辺倒。


久しぶりの山林開拓、みかんの苗を持ち、現地にいくと、、、


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現地は山の上にあり、南向きの斜面から海が一望できるはずが、新緑が凄すぎて海が全く見えません。


草刈りがんばります。


気づきと繋がり

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なんとなく夜中の公園で地べたに座り、夜空を見上げながら気づいたことが珍しくくっきりと繋がったので忘れないうちに書いておきます。


普段の生活で、当たり前のように使う一人称。僕、私、のことですね。

これを使う時、自分を指していることに疑いようはありません。

では、指している自分とは何か。

肉体の中にある自我なのか、それとも、たまたまその肉体の中にあり自我と一体になって埋没しているものなのか。


後者は魂と呼ばれるもの。


魂は、自分が意識を持ち社会生活を営んだいる間は無意識の中に埋没し言語を持たずひっそりと過ごし、その肉体が寿命を全うしたときにその肉体から抜け、本来の姿になるもの。


人が欲を持ち、社会のルールの中でその欲求を際限なく満たし続けようとするのは、一人称である、私、僕が、肉体の中にある自我のみを指しているから。


もし、魂の存在が立証され、その存在が浸透し、人が今の肉体とその中にある自我にこだわる必要がなくなったとき、つまり一人称が魂そのものを指すようになったとき、自分も含めて人は過剰な欲望から解放され、次のステップに進むのだろう。


次のステップに進むとどうなるか。

肉体が不要になるのか、別の天体から手が差し伸べられるのか、肉体を持ちながら真理に到達するのか、いずれにしても、現世と比べれば地獄と天国くらいの開きがあるんだろう。